中山美穂さん 語り継がれる「ベストテン」の伝説とは 米原駅で歌唱しようと…本人待望保存版発売へ

自宅で6日に死亡しているのが見つかった歌手の中山美穂さん(享年54)が完成を心待ちにしていた映像集があることが13日、分かった。5枚組のブルーレイで、タイトルは「~Miho Nakayama 40th Anniversary~ 中山美穂『ザ・ベストテン』永久保存版」。来年3月19日に発売される。中山さんは生前「いつまでも心に残していただきたいな」と話していた。生放送だっただけに、さまざまなアクシデントが醍醐味(だいごみ)でもあった番組。中山さんにも語り継がれる伝説シーンがあった。その場面が収録されているのか、いないのかも楽しみになる。 来年がデビュー40周年だった中山さん。記念イヤーを前にファンとの交流を楽しみにさまざまな準備を行っていた。今回のブルーレイもその一つ。1年前からスタッフと発売に向けて進めていたプロジェクトだった。 中山さんは「私にとっても、記念になる思い出の作品だと思うので、画面の向こう側で見てくださった方も思い出に浸れるものになると思いますし…。いつまでも心に残していただきたいなと思います」と生前に語り、完成を心待ちにしていた。 1980年代に放送されたTBSの人気音楽番組「ザ・ベストテン」の歌唱シーンを中心に高音質、高画質処理を施した永久保存版だ。発売元はTBS/TBSグロウディア。 「ザ・ベストテン」は1978年1月~89年9月に放送され、アイドル全盛時代を支えた伝説の音楽番組。ブルーレイには、ザ・ベストテン出演映像を全て収録し、貴重なボーナス映像も収めてあるという。 生放送だったからこそのハプニングでは、1986年8月、新幹線移動の途中にJR米原駅(滋賀県)で停車中に「JINGI・愛してもらいます」を歌唱する予定だったが、東京のスタジオからの音声がイヤホンから聞こえず、歌えないまま、中山さんを乗せた新幹線が発車。動く電車の窓から手を振る中山さんが遠ざかっていった。その後、今度は名古屋駅で歌い直すという“神回”と呼ばれたシーンがあった。こちらが収録されているかどうかも注目される。 ハプニングに遭っても明るい笑顔でキュートに対応していた中山さん。永久保存版に願ったのは、いつまでも心に――。あの笑顔はきっと見る人の心に残る。 ▽ザ・ベストテン 邦楽のヒット上位10曲を独自集計でカウントダウン形式で紹介。女性司会者は黒柳徹子。男性司会者は初代が久米宏で、その後、小西博之らが引き継いだ。最高世帯視聴率は81年9月放送の41.9%で、イモ欽トリオの「ハイスクールララバイ」が1位だった。放送終了後もたびたび特番として復活。最多連続1位は寺尾聰の「ルビーの指環」の12週連続。1位を最も多く獲得した歌手は中森明菜の69回。

中山美穂さんのデビュー40周年全国ツアー中止を発表 チケットは払い戻し対応

突然の別れに、ただただ泣きたくなった――。 列島が激震したのは12月6日夕刻。俳優で歌手の中山美穂さんが、都内の自宅で亡くなったとの一報が駆け巡ったのだ。デビュー40周年を来年に控えた、54歳という若すぎる死だった。 「中山さんは自宅マンションの浴槽で着なしのまま前かがみになり、顔が水につかっている状態で発見されました。彼女の所属事務所によって、死因は入浴中の不慮の事故だったと発表されました」(全国紙社会部記者) 中山さんの自宅付近に住む70代の女性はFRIDAYにこう話した。 「お昼の12時を過ぎていたと思うのですが、消防車と救急車がサイレンを鳴らしてやってきて、それから5分ぐらいでストレッチャーで誰かが運び出されて……自宅は一見、ありふれた古めのオフィスビルなので、まさか中山美穂さんが住んでいるとは知りませんでした」 近隣に住む別の女性は、生前の中山さんの姿を目撃していたという。 「近所に『ライフ』と『明治屋』があるんですが、中山さんは庶民的な『ライフ』のほうで買い物をしていました。キャップを被っていましたが、特に変装する様子はなく、テレビで見る美しい姿のままでレジに並んでいたのが印象的でした」 姉のもとに駆けつけた実妹の中山忍(51)は、FRIDAY記者を含む報道陣に向け、涙を滲(にじ)ませながら頭を下げた。 「突然のことで、今お話しできることが何もありませんので……。改めてお話しさせていただくことがあると思いますので。遅くまで申し訳ございません……」 喪主は彼女が務めるという。スーパースターの早すぎる死は、世界中に報道された――。 ◆″育ての親″たちの思い 中山さんは’85年、『毎度おさわがせします』(TBS系)で俳優デビュー。同年に『C』で歌手デビューを果たすと、その年の『日本レコード大賞』の最優秀新人賞を受賞した。その後も、’92年の『世界中の誰よりきっと』と’94年の『ただ泣きたくなるの』がいずれもミリオンヒットを記録するなど、アーティストとしても才能を発揮。亡くなった当日も大阪でクリスマスコンサートを行う予定だった。レコード会社関係者が明かす。 「来年がデビュー40周年イヤーで、節目の年に向けて大規模なライブや撮影の仕事が色々と決まっていたんです。中山さんはやる気に溢(あふ)れていて、打ち合わせにも積極的に参加していた。体調が優れないといった話はまったく耳にしていなかっただけに、訃報に接して皆、呆然としています……」 中山さんの才能を見出し、初代担当音楽ディレクターを務めた元キングレコードの福住朗氏(75)もその一人だ。 「(中山さんの死は)テレビのニュースで知りました。『嘘だろ』と耳を疑いましたね。すぐキングレコードの同期に電話をして、『まいったね』と途方に暮れました。 彼女とは、デビュー前に知人を通して初めて会いました。無口だったけど、歌っている時の口の形がとてもきれいで、声も素晴らしかった。『すごく才能を感じさせるから、絶対デビューさせよう』と必死に上司を説得したのを覚えています。最後に会ったのは今年4月。広島県三原市で行われたコンサートを観に行ったんです。元気いっぱいで、アイドル黄金期の’80年代を走り抜けた時の姿そのままだった。終演後、楽屋へ挨拶に行くと、ドラマの出演や新曲の発表など、″まだまだやりたいことがたくさんある″と目を輝かせて話していました。最近は、私と会うたびに『体調は大丈夫?』と声をかけてくれていてね……。 私が逝って中山が葬儀で涙を流すシーンがあったら嬉しかったんだけど……順番が逆だよね」 デビュー当時から宣伝担当を務めた元キングレコード常務取締役の竹中善郎氏(69)は、「一般的なアイドルとは違うタイプだった」と明かす。 「普通のアイドルは挨拶から元気いっぱいだけど、美穂は静かで大人しい印象だった。ただ、他の子とは違う圧倒的な″何か″を感じたんだよね。CDデビューした時は映画『ビー・バップ・ハイスクール』や連ドラの撮影が重なっていて相当に忙しかったはずだけど、美穂は一切弱音を吐かなかった。芸能界で仕事をするにあたって、相当な覚悟を決めていたんだと思います」 トップアーティストとしての地位を確立したメガヒット曲『世界中の誰よりきっと』でコラボした『WANDS』の初代ボーカル上杉昇氏(52)は、「スターという言葉が似合う人でした」と往時を振り返った。 「中山さんは僕が学生の時から大人気のスターだった。『世界中の~』は″憧れの人″と仕事をした感じでした。彼女とはいろいろなところで歌わせてもらいましたが、どんな時でも皆さんが思う『中山美穂』そのままでした。彼女の後ろ姿からも、それは感じていましたね。 僕は当時あがり症で、取材を受けてもインタビュアーの質問にうまく答えられるかどうか自信がなかった。それで『美穂さん、助けてください』とお願いをしたことがあったんです。すると美穂さんは、僕に代わって全部答えてくれた。頼もしかったですね。 訃報に接したときは、しばらく理解が追い付かなかった。″どういうことなんだろう″ってしばらく呆然としていました。美穂さんが亡くなったことが、徐々にわかってきたという感じです。彼女は10代からずっと表現者として第一線を走ってきた。今はゆっくり休んでほしいと思っています。何より、『一緒に歌ってくださってありがとうございました』と言いたいですね……」 デビューから40年間、眩(まばゆ)いばかりの光を放ってきた永遠のスーパーアイドル。日本中がいまだにその死を受け止められないでいる。 『FRIDAY』2024年12月27日号より

「最期に会えてよかった」中山美穂さん 葬儀で離別息子と無言の対面…離婚後も「誰よりも会いたい」と願い続けた再会

12月6日に東京・渋谷区の自宅で俳優の中山美穂さん(54)が急逝してから一週間が経った。 8日に入浴中の不慮の事故で亡くなっていたことが明らかにされ、12日には、中山さんの公式HPで、同日に家族と所属事務所だけで葬儀を行ったことが発表された。喪主を務めたという実妹の中山忍(51)は、以下のコメントを寄せている。 《最近での、一番のお気に入りだったドレスを纏い、楽しそうに歌う姉の写真を中央に、好きだった色取り豊かな花々で飾っていただいた祭壇は、華やかでキラキラしていて、最後のステージのようでした。お別れまでのほんの数日間ではありましたが、子供の頃に戻って枕を並べ、姉の横顔を見つめながら眠りについたこの穏やかなひとときは、私の宝物となりました》 続けて、こう綴った。 《そして、何より姉が幸せを願ってやまない愛する息子と、再会の時間をもたせてあげることができました。手を繋ぎ、そっと寄り添う2人の姿は、とてもとても幸せなものでした》 長らく離れていた20歳の一人息子が葬儀に駆けつけていたことを明かしたのだ。 中山さんは’02年6月に作家・ミュージシャンの辻仁成(65)と結婚し、フランス・パリに移住。’04年1月には長男が誕生したが、’14年7月に離婚している。離婚が成立するまで、インタビューではたびたび“子どもが最優先”であることを語っていた中山さんだったが、離婚協議中に男性との密会報道があり、離婚後に“親権を放棄した”という報道が出てしまうこともあった。 ただ、本誌12月10日発売号では、中山さんの知人の「彼女からは、“親権を譲ることが離婚を承諾してもらう条件だった”と聞いています」という証言を報じている。   そのほか、中山さんが交際していた音楽家との破局が報じられる直前、’15年9月〜10月頃にかけて更新していたTwitter(現X)の投稿からは、息子に会えない苦しみが滲んでいた。   《無論いちばん会いたいのは息子。絵本を読んだり子守唄を歌ったり。もう必要ないか》 《息子に色々買ってきたんだけど最近は直接渡せず。仕方ないね。お父さんとなかよくね》 《誰よりも息子に会いたい》(いずれの投稿も現在は削除済み)   中山さんと息子の関係については、’23年11月に公開された辻のWebマガジン『JINSEI STORIES』の記事に《母という単語は、ぼくらのあいだで長年、タブーになっている》という記述があるように、最近まで複雑のものがあったことがうかがえる。   結局、母子で会うことは最後まで叶わないまま、中山さんは帰らぬ人に。無言の対面とはなってしまったが、忍が2人の“再会”を知らせると、Xではこんな声が上がった。   《最期に息子さんと会えてよかった。どうぞ穏やかに》 《最後の最後に美穂さんの願いは届いたかな……ご冥福をお祈りいたします》 《美穂さん、最後は愛する息子と手を繋げてよかったね。息子君もママと会えてよかった。ほんとなら抱きしめたかっただろうな》   対面した関係者によると、不慮の事故を感じさせない綺麗な顔で亡くなっていたという中山さん。最愛の息子との再会を経て、安らかに眠っていることを祈るばかりだ。